秘密の箱庭

霊体と肉体の視点から日常を徒然

難しいなぁと感じる話とお陰様、お互い様の繋がりに関して

スピリチュアルが極普通のものであり、まずスピリチュアルという言葉に違和感を常々感じている。

結局、肉体と精神の本質を理解できる人は少ないのかもしれない。

 

全てが繋がっている、という言葉しか伝えようがない。

 

こうしてブログの記事に文字として思いを吐露すると、それは物質になる。

なぜ視覚で伝わる物質にするか、音で伝わる言霊にするのか。

このような単語を用いると不思議なものとして伝わるかもしれない。

 

ならば、『言葉で相手に伝える』ならどうだろう。

スピリチュアルではない、慣れしたしんだものになるのだろうか。

 

うーむ。

あまり答えは出さない方がいいんだろうか。

 

私は自分の人生に起きたものを乗り越えて今に至る。

 

肉体のある私たちは繋がりに鈍感であるため、生きている間に他の方の人生の経験を吸収することは難しい。

全てが終わったときに一つのかたまりに戻る。

 

今、現実で生きている人、当たり前だが全員が違う人生を生きている。

自分にとって苦労でないと感じることも、相手にとっては苦労だし、 

自分にとって幸福であると感じることも、相手にとっては幸福だ。

 

生きていると、もちろん自分一人の人生では経験できないことの方が多い。

そのため何回も生まれ変わったりする。

 

だから現代で同じ現実を生きているもの同士、相手がどんな人生で頑張っているのかなど、共有できることはとても素晴らしいこと。

 

自分一人では経験しようにも時間も気力も足りない。

 

ニュースで事故などが流れたら、誰かが頑張っている話など流れたら、他人事ではない。

自分のことのように悲しむし、喜ぶ、それは相手が自分でもあるから。

 

こう表現してしまうと、不思議な話になるだろうが、どうしようもないよなぁ。

 

学生の頃学んだ心理学や精神医学を思い出すが、医学というのは物質世界のものである。

そのため遅れている。後追いなのだ。

理由は霊界より物質の方が後から出来上がるためである。

 

西洋医学も東洋医学も長所と短所があるが、東洋の方が病は気からという言葉があるように、本当の根本に近いと感じる。

もちろん、西洋医学を否定する気はない。

色んな方面で分散して成長することが重要であるからだ。

 

あぁ、そういえば。

 

最近身にしみて感じることがある。

お陰様、お互い様』ということである。

 

以前『神仏をなんだと思っているのか』とお伝えしたことがあるが、同様の話だ。

 

まずお伝えするが、私は特別な人間ではない。

普通に生きていて、自分なりに人生の様々なことを体験し、自分なりに頑張って今に至る。

これは全ての人に当てはまる話だと思う。

 

私の霊視では霊格を上に保って行うため、意思疏通はテレパシーである。

テレパシーは光のようなものであり一瞬で消える。

そのため読み取りが難しく感じることもある。

 

前は名前だけではうまく見えなかったが、見えるようになったりできることは変化している。このような変化で感じることは、使うことは大切ということだろうか。

 

霊視で音が聞こえる方は、相手の存在が物質世界の波長までわざと落ちているということのため相手の存在に注意が必要となる。

 

高い存在になればなるほど、それが困難であることが分かるだろうか。

霊格が高い存在になるほど、物質の音のレベルまで下げるのは疲れるということ。

 

少し脱線してしまったが、『お互い様、お陰様』に戻そう。

 

私が最近感じることだが、私の元へくる依頼の中で、神仏が困っているパターンが見える事例がある。

現実の物質世界で定着させる居場所がなかったり、浄化の必要があったりということだ。

 

それが、依頼でブレスレットやチャームを作ることにより、神仏にとっての居場所が出来たり浄化に繋がることがある。

依頼者にはそれにより神仏からの感謝と深い縁がもたらされる。

 

常々、全ての存在は平等であり、神仏も私たちと同じであることをお伝えしている。

全ては繋がっており、お互い様、お陰様であることが伝わるだろうか。

 

私の霊視を受けることで、何かから助かることはない。

もしそのようなことがある場合、ご自身の力である。

 

霊界での繋がりと、物質での繋がりの両方ができることにより、ご自身の霊体がしっかりする。

このことにより変化がもたらされるのが、その変化がくるかどうかは自分次第である。

 

結局、外にあるものはきっかけに過ぎず、全ては自分にしかない。

 

それでは霊体とは何なのか。

それは自分の本体である。

この存在に関しては、地動説や地球平面説のようなものである。

 

当たり前のように存在するのに、人々はまだ神話のようにスピリチュアルというものにカテゴライズしている。

 

カテゴライズは人に安心感を与える。

 

先に生まれた存在よりも、後から生まれた存在の方が進化する。物質でも霊的な側面でも同様。

 

精神病が近年沢山カテゴライズさている。

細かい分類があるのだ。

もちろん、相手を知るために考えることは必要なのだが、『病』として定義するべきではないものの方が多い。

 

これは長くなるからここまで。

 

大切なのはカテゴリーなのかもしれない。

人は自分が理解できる範囲でカテゴライズしようとする。

そして、安心感を得たいのかもしれない。

 

…そろそろ増税の時期が近づいている。

では。